夜明け前。中辺路(なかへち)、熊野古道の六本のうち、本宮へ最もよく歩かれる内陸ルートの石畳のうえで、日本のこの地方からしか聞こえない音がある。
朝の湿気にうっすら濡れた石が、靴のつま先に押されて、小さな音を放つ。一秒後、その音に、霧の中、五十メートルほど先のどこかから、似た音が答える。これは別の歩く人だ。杉の樹々のあいだで、姿は見えない。
紀伊半島のこのあたりの杉は、古い。最初の天皇たちがこの道を歩いたときから、ここに立っていた木もある。背が高く、まっすぐで、樹皮は雨に濡れた鉄の色をしている。樹々のあいだの道は、あるところは石、あるところは踏み固められた土、あるところは斜面に手で刻まれた階段。何百キロにもわたって、曲がりながら続いていく。
そのまま歩き続ければ、道は、やがて、ある開けた場所に出る。開けた場所には朱塗りの橋が小さな川を渡っている。橋の向こうに石段がある。石段のうえに木造の社殿がある。社殿のなかには、神(かみ)がいる。
その神の名前を、あなたはすでに知っているかもしれないし、知らないかもしれない。その神はキリスト教の聖人ではない。聖ヤコブではない。それは「神(かみ)」、日本の神道の伝統における、神格・霊・神聖な存在のこと。記録された宗教より古く、列島のあらゆる川、山、古木に織り込まれている存在である。
だが、本号で見ようとしているのは、まさにこの点である。この社殿のなかの神は、厳密には、神だけではない。それは仏でもある。二者は、この山の上で、ひとつの形を分かち合うことに合意している。
これが、熊野詣である。
第1号で、私たちは「終わりのない旅」を問うた。
第2号で、「終わりのまわりに組み立てられた旅」を問うた。
今号では、道は私たちを第三の場所、両者のあいだのどこかに連れていく。
日本の比較巡礼研究が世界の伝統を形で分類するとき、おおむね四つの型が現れる。
直線型の巡礼。ひとつの目的地へ。サンティアゴ、ハッジ、エルサレム巡礼。これは第2号で取り上げた。
円環型の巡礼。ひとつの地域や島を一周する。四国は最も発達した例である。
複数目的地・回遊型の巡礼。西国三十三所のように、西日本各地に散らばる三十三の観音霊場をめぐる、円を閉じない経路。
そして、もうひとつ。直線でも円環でもない、ある聖なる地域のなかに散らばる聖地のかたまりを、歩いた道で繋ぐ形がある。
この最後の形が、熊野詣が日本の宗教にもたらしたものである。『四国遍路』はこれを「単一聖地・三尊・準直線型」、すなわちひとつの大きな目的地ではあるが、その目的地が一つの山域の三つの峰に分かれており、それぞれの峰が独自の社と独自の神を持つ、と説明している。
見に行こう。
六つの道、三つの社
熊野地方は、紀伊半島、大阪・京都の南、太平洋に向かって突き出した、長い山岳の半島の南端にある。現代の地図のうえでは、それほど大きくはない。半島を車で横断するなら数時間で済む。だが、道がなかった時代、山々がこの場所を作り、この場所が山々を作って、地方であると同時に聖域でもある何かに、ここを変えていった。
熊野詣のルートは、ひとつではない。六つある。
紀伊路(きいじ)。古都・京から淀川を船で下って、大阪の渡辺津(現在の天満橋付近)に上陸し、そこから南下して紀伊半島の西側を、長く連なる王子の社々を辿りながら歩くルート。
中辺路(なかへち)。田辺で紀伊路から分岐し、内陸の山を越えて本宮へ向かう。今日もっとも歩かれており、石畳の保存もよい。
大辺路(おおへち)。田辺で同じく分岐し、太平洋沿いに紀伊半島の南端を回るルート。
小辺路(こへち)。直接の社間ルートとしては最も標高の高い道。空海が開いた高野山から、紀伊山脈の尾根を通って本宮へ降りる。
伊勢路(いせじ)。東の伊勢神宮を起点とするルート。
大峰奥駈道(おおみねおくがけみち)。大峰山系の尾根を吉野(北)から本宮(南)へ縦走する厳しい山岳ルート。修験道(しゅげんどう)、すなわち日本の山岳修行の伝統で、神祇信仰、密教、土着のシャーマン的山岳信仰、そして道教の影響をあわせた習合的な実践、の修行者によって伝統的に歩かれてきた。
六つのルート。ひとつの目的地域。
だが、すぐに気づくことがある。目的地は、ひとつの場所ではない。三つある。
熊野詣の心臓部は熊野三山(くまのさんざん)、本宮大社、速玉大社、那智大社の三社。山と川によって隔てられているが、儀礼的にひとつとして理解される。三社はすべて十二柱の同じ神(熊野十二所権現)を祀っており、各社は共有する神々のなかから一柱を主祭神として強調する、という構造になっている。
本宮大社は内陸、現在は熊野川を見下ろす高台に立つ。ただし平安期の上皇巡幸の頃には、社殿は川中の中州「大斎原(おおゆのはら)」にあり、1889年の大水害で流失して現在の高台に遷座した。本宮の主祭神は、習合の中世的伝統では、阿弥陀如来、西方浄土を司る慈悲の仏、と一体のものとして読まれていた。
速玉大社は新宮、熊野川が太平洋に注ぐ河口にある。その主祭神は薬師如来、癒しの仏、と一体のものとして読まれていた。
那智大社は那智山の斜面、那智の大滝のかたわらにある。那智大滝は日本最大の落差を持つ単段の滝で、断崖を133メートル一気に落下する。その主祭神は千手観音、同時に全ての衆生に手を差し伸べる慈悲の菩薩、と一体のものとして読まれていた。
三つの社。三柱の神。三体の仏。ひとつの地域。
平安期の巡礼者(これから登場するある特定の巡礼者たち)は、ひとつの社から次の社へと歩いた。最も多い順序は、院政期の標準的な順路である本宮→速玉→那智、ときには別の順序。それぞれの社は独自の目的地でもあり、しかしどれも最後の目的地ではなかった。三社すべてを参詣するまで、巡礼は終わらない。そして三社を巡り終えた後でさえ、ある別の意味では、巡礼は本当に終わったわけではない。それは何度も繰り返される行為であった。
三十四度、熊野へ
熊野詣がもっとも栄えたのは、平安後期から鎌倉初期、歴史家が「院政」と呼ぶ時代である(出家上皇が形式的天皇の背後で実権を握った時代)。
このとき退位した上皇たちが、熊野詣を行った。何度も。何度も。
白河上皇(退位後)は九度。鳥羽上皇は二十一度。後白河上皇は三十四度。後鳥羽上皇は二十八度。
これは控えめな数字ではない。当時の都・京から熊野への往復は、徒歩で、宮廷の同行者、警備兵、輿の担ぎ手、儀礼の専門家を含めた大規模な一行を引き連れて、片道およそ二十日。準備と祭儀を含めれば、一回の熊野詣で一ヶ月以上を費やした。後白河上皇は、生涯で三十四回の熊野詣を行った。彼の治世のかなりの部分を、熊野への道で過ごしたことになる。
なぜか。
答えはいくつかあり、どれも単独では十分ではない。
第一の答えは宗教的なもの。院政期までに熊野地方は「他界への入口」、すなわちこの世とあの世のあいだの境界、神々と仏たちが地表近くにいて、聖なる領域の閾(しきい)に直接立てる場所、として知られていた。熊野詣はある特定の社への信仰行為以上のものだった。それは、儀礼的に死に近づく経験、聖なる別世界への管理された越境、であり、そこから、復活して戻ってくる旅であった。古い巡礼の文献の中には、この道を「蘇りの古道」と呼ぶ表現も見られる。
第二の答えは政治的なもの。院政期は、退位した皇統が公式の朝廷機構の外で実権を握る時代であった。彼らの巡礼は、国事的な行為でもあった。宗教的な裁可、累積した功徳、神祇仏教の領域に基づく主権の表明、を兼ねる。
第三の答えは、おそらくもっとも人間的なもの。「また行きたかった」。道は美しかった。山々は古かった。社々は終点で待っていた。一度熊野へ歩けば、次の歩みはすでに身体のなかにある、もう一度歌いたい歌のように、と文献は示唆する。
最も深い答えがどれであれ、道は、これらの貴族の足によって踏み固められ、その後、商人、農民、市女笠の女性たち、放浪する僧侶、あらゆる階層の巡礼者によって歩かれていった。江戸期に入る頃には、院政期の皇室の流れはすでに過去になっていたが、民衆の熊野詣は独自の流れを形成していた。『遍路と巡礼の社会学』は、文政10年(1827年)という例年に比べて非常に多い特殊な年について、半年(閏六月まで)で約二万五千〜六千人の巡礼者が熊野を通過した、と原典に「珍しい多さ」と明記された記録を引いている。年ごとの変動を考えても、ふつう人々がほとんど旅をしなかった時代としては、注目すべき民衆の流れである。
そして、道沿いには、神々がいた。何百も。
九十九王子——道そのものが聖である
今日、中辺路を歩けば、小さな道沿いの社や、磨り減った石碑、ときには木の柱と空き地だけの場所(かつて供物が置かれていた場所)を通り過ぎる。これらは「王子(おうじ)」、すなわち熊野詣のルート沿いに祀られた、熊野の大神に関連する小さな神々を、道、巡礼者、その森のひと区画の守護神として祀る道沿いの社である。
これらの社の伝統的な数は九十九。「九十九王子(くじゅうくおうじ)」という。九十九の王子が熊野までの道に並んでいた、と語られた。九十九という数は、必ずしも厳密な数ではなく、「数多くの」という古い用法でもある。実際の数は時代により変動した。
今日では、その多くは見つけにくい。苔のなかの石。杉の幹に取り付けられた木板。森に再び吸収されてしまったもの。一握りが、年中行事を伴う小さな神社として、地元の世話人とともに残っている。
だが、王子があなたに告げているのは、カミーノの石矢印が告げないことである。それは、道そのものが聖であるということ。目的地だけが聖なのではない、ということ。それぞれの王子が、あなたに、ほんの一瞬、立ち止まることを求めてくる。それぞれの王子は、独自の顔と独自の贈り物を持つ神である。
直線型の巡礼は、その純粋な形では、道を道具的にする。道は大聖堂に到達するための手段である。円環型の巡礼、四国のような、は道を平等にする。円のあらゆる点が、他のあらゆる点と同じ重みを持つ。
熊野は、その二つのあいだに位置する。道は平等ではない。三つの締めくくりの社、三つの宗教的重力点がある。だが道は道具的でもない。九十九の道沿いの社、杉、川を渡る橋、那智の麓の苔むした石段「大門坂(だいもんざか)」、すなわち那智大社へと続く長い石段、約六百メートル・二百六十七段、樹齢何百年もの杉並木のなかを社と滝へ向かって登る。これらは、ただの準備ではない。これらは巡礼そのものの一部である。
神でもあり、仏でもある
ここから、熊野詣のもっとも奇妙で美しい部分、カミーノの構造にも、四国の構造にも当てはまらない部分、に踏み入る。
熊野の神々は、すでに見たように、二重である。
本宮の神は、阿弥陀如来でもある。 速玉の神は、薬師如来でもある。 那智の神は、千手観音でもある。
この二重の同一性が、本地垂迹(ほんじすいじゃく)、文字通り「本来の地、垂れ下がる跡」、という、中世日本の神学的枠組みの教理である。神道の神々は、宇宙的な仏が、この特定の島々で、地元的な姿として顕現したものとして理解された。
これは妥協ではない。総合(synthesis)であった。平安後期から江戸期にかけて、神道と仏教の二つの宗教は、深い意味では二つの別個の宗教ではない、という理解が支配的だった。一つの宇宙的な仏の場があり、そして、その仏が、これらの島々の人々にとって見えるものになるための、地元の神々があった。神々は劣ったものではなく、仏は外来のものではなかった。同じ事実を、異なる角度から見ているにすぎなかった。
1100年の本宮大社に近づく巡礼者は「これは神社か、寺か」と問わなかっただろう。その問いはこの巡礼者にとって意味をなさなかった。社殿は両方を抱えていた。神は両方の語彙で礼拝された。木造の祭壇には神への供物があり、数歩離れたところで僧侶の読経が続いていたかもしれない。
この総合は、1868年に新しい明治政府が「神仏分離(しんぶつぶんり)」、神々と仏たちの公式な分離、神道を仏教的要素から「浄化」し、土着の国民宗教として再確立しようとした国策、を布告したことで、公式に断ち切られた。多くの神社が仏像を失った。多くの寺院が破却または転用された。千年にわたる習合は、令によって引き裂かれた。
だが、熊野は熊野が何であったかを覚えている。
今日そこを歩けば、層をなす建築、習合的な図像、古い道沿いの社の石碑に神の名の下に書かれた仏の名を、まだ見ることができる。本地垂迹はもはや記憶だが、それは現存する記憶である。古い紙の透かし模様のように、現代の光がそれをまだ浮かび上がらせる。
これは、ひとつのキリスト教の目的地を持つカミーノが持っていないものである。これは、八十八のすべての札所が仏教寺院である四国も、同じようには持っていないものである。明治の神仏分離以降、四国の円環は主として仏教として現れている。多くの札所が独自の神祇との関係史を抱えており、それは後の号で扱う題材である。
熊野は日本の巡礼に、もとは別個の二つの聖なる伝統が、一つの道のうえで一緒に歩いて、そして、ついには区別できなくなる、という前例を与えた。
線でも円でもない、星座のような道
つまり、熊野は線でも円でもない。何なのか。
それは星座(constellation)である。森に覆われた山岳地域のなかに散らばる聖なる点の小さな集まりが、歩いて踏まれた道で結ばれており、道そのものが聖性に参与しており、神々が二つの宗教伝統のあいだで二重化・再二重化されており、皇族の巡礼者と農民の巡礼者が同じ石を千年以上にわたって歩いてきた、という構造。
それは目的地である(三つの目的地)でもあり、終わらない道でもある。
熊野が私たちにこの連載で教えてくれるのは、「直線 vs 円環」の二項対立だけが真実ではない、ということである。巡礼の伝統は、ときに枝分かれする網であり、ときに地域を彷徨う回遊であり、ときに樹形であり、ときに編み目である。形で分類しようとする心は、エッジケースを次々と見つけてしまう。そして熊野は、日本が提供する最大のエッジケースである。
これからの号では、線と円に戻ってくる。だが、最初に、世界にはこの二つよりも多くの形があることを、覚えておくとよい。
中辺路の上で、石と杉の音を聞いている巡礼者にとって、次の道の曲がりが大事なのである。次の曲がりは、九十九のうちの一つでもある。次の曲がりは、三つのうちの一つでもある。次の曲がりはまた、終わらない道でもある。